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第七話 檻の内側

Author: 海野雫
last update publish date: 2026-02-07 19:00:38

 目を覚ますと、真っ白な天井が見えた。

 それだけで、心が凪いだ。

 よかった。まだ、ここにいる。

 鷹宮の家で目覚めることに、安堵している自分がいた。毎朝、同じ天井を確認しては、同じ安心を得ている。ここにいられる。まだ追い出されていない。

 この場所を失ったら、今度こそ終わりだ。路上に戻る勇気も、ネットカフェで生き延びる体力も、もう残っていない。

 だから、なんとしてもここにいなければならない。

 今日は、鷹宮が部屋に来る前に起き上がった。自分から動いた方がいいし、言われる前にやった方がいい。そうすれば、必要とされる。そうすれば、ここにいられる。

 部屋を出て廊下を歩くと、キッチンから物音がした。朝食の準備をしている鷹宮の背中が見えた。

「おはようございます」

 控えめに声をかけると、鷹宮の肩がびくりと揺れた。振り返った顔には、驚きが浮かんでいた。

「今日は早いな」

「はい。よく眠れたので。シャワー浴びてきますね」

「ああ、わかった。朝食の準備をしておく」

 鷹宮の頬が、ふわりと緩んだ。

 その表情を見て、湊の胸も温かくなった。機嫌がいい。喜んでもらえた。それだけで、朝から気分がよかった。

 シャワーを浴びて、用意された服を着て、ダイニングへ向かった。

 鷹宮はすでに席についていた。けれど、さっきまでの穏やかな空気が消えていた。

 タブレット端末を、睨むように見つめていた。眉間には深い皺が刻まれ、口元は引き結ばれていた。

 ――なにがあった。

 湊の心臓が、どくりと跳ねた。

 シャワーを浴びる前は、あんなに機嫌がよさそうだったのに。なにが変わったのだろう。自分がなにかしたのだろうか。

 ――俺、なんかやった?

 不安が、じわりと胸に広がった。

 湊は、びくびくと怯えるように椅子に座った。「いただきます」と小さく言ったが、鷹宮は応えなかった。視線はタブレット端末に注がれたままだ。

 食事の間、長い沈黙が続いた。

 普段から食事中に会話はほとんどしない人だ。でも今日は、空気がぴりぴりと張り詰めている。息をするのも憚られるような緊張感。

 なにか言った方がいいのだろうか。でも、なにを言えばいいのかわからない。下手なことを言って、さらに機嫌を損ねたらどうしよう。

 結局、湊は黙って食事を続けた。味が、よくわからなかった。

 食事を終えた鷹宮が、ようやく口を開いた。

「今日は出かける。君もついてきなさい」

 命令だった。

「わかりました」

 湊は、そう答えるしかなかった。

 マンションの地下駐車場には、いつもの黒い車が待機していた。

 会社への送迎に使う車だ。でも、「出かける」という言葉が引っかかっていた。会社ではない、どこか別の場所に行くのだろうか。

 後部座席に乗り込むと、車内には緊張した空気が満ちていた。鷹宮は無言で、窓の外を見つめている。横顔からは、なにも読み取れない。

 湊は息が詰まりそうだった。真っすぐ前を向いているのが苦しくて、窓に目をやった。

 流れていく景色が、見慣れない方向だった。会社への道ではない。どこに向かっているのだろう。

 しばらくして、鷹宮が口を開いた。

「しばらく、君と外の接触を減らす」

 湊は、思わず鷹宮を見た。

「え?」

「これから、君の身の回りを整理しに行く」

 意味が、わからなかった。

 外との接触を減らす。身の回りを整理する。具体的には、なにをするということなのだろう。

 聞きたかった。でも、聞けなかった。

 これを断ったら、自分の居場所がなくなる。その恐怖が、喉を塞いでいた。

「……わかりました」

 そう答えるのが、精一杯だった。

 鷹宮が、小さく呟いた。

「もう君を、探させない……」

 聞こえるか聞こえないかの声だった。その後、かすかに歯軋りの音がした。

 ――探させない?

 誰が、湊を探しているのだろう。

 不安が、胸の奥で募っていった。

 車窓には、見慣れない風景が流れていた。

 都心を抜け、郊外へ。住宅街を通り過ぎ、どんどん建物がまばらになっていく。湊が今まで行ったことのない場所だった。

 二時間ほど走っただろうか。車が、古びたマンションの前に止まった。

 湊は、息を呑んだ。

 ――このマンション。

 見覚えがあった。

 元婚約者と一緒に住んでいた場所だ。彼が消えた後、家賃を払えなくなって追い出された場所。湊がすべてを失った場所。

 なぜ、ここに。

「君はここで待っていてくれ」

 鷹宮が、ひとりで車を降りた。迷いのない足取りで、マンションのエントランスに入っていく。

 湊は、取り残された。

 心臓が、痛いほど鳴っていた。

 なにが起きているのか、わからない。なぜ鷹宮がこの場所を知っているのか、なにをしに行ったのかもわからない。自分にはなにも知らされていない。

 鷹宮だけが、すべてを把握している。

 湊の過去を。住んでいた場所を。元婚約者のことを。

 どこまで調べたのだろう。いつから知っていたのだろう。

 不安と、恐怖と、そしてどこかで――安堵が混じっていた。

 この人は、湊のすべてを知ろうとしている。把握しようとしている。

 それは、湊を大切に思っているからではないのか。

 そう思いたかった。

 しばらくして、鷹宮が戻ってきた。

 表情は険しかった。眉間に深い皺を刻み、唇を引き結んでいる。珍しく荒々しい歩き方で車に近づき、ドアを力いっぱい閉めた。

 バタンという音が、車内に響いた。

 湊は、身を縮めた。

「君は本当に、人に自分を預けすぎる」

 鷹宮が、大きなため息をついた。

「なに……が、ですか?」

「元婚約者のことだ」

 その言葉で、湊の背筋が冷えた。

「住んでいたマンションも、光熱費も、通帳も、何もかもあの男の名義にしていただろう。君の名前で残っているのは、借金だけだ」

 鷹宮の声は、静かだった。静かなのに、怒りが滲んでいた。

「そ、それは……」

 言い訳が、出てこなかった。

 湊は頼まれると断れない性格だった。一緒に住むマンションの契約も、彼に任せた。名義は彼のものにしていた。だから湊は、住む家を失った。

「君は本当に、お人好しだな」

 その言葉が、胸に刺さった。

「結婚するための資金は、全部君が用意していたんだろう? それなのに、借金だけが君の名義。笑えない話だ」

 本当のことだった。なにも言い返せない。

「だから奪われる」

「……そう、ですね」

 湊は、うつむいた。

 家も、金も、未来も、すべて奪われた。信じていた人に、裏切られた。湊には人を見る目がない。判断力がない。だから騙された。

 全部、自分が悪い。

「だから、もう君を奪われない場所に置くしかない」

 鷹宮の声が、少しだけ柔らかくなった。

「え……?」

「君はもう、なにも選ばなくていい。僕が守る」

 湊は、顔を上げた。

 鷹宮が、湊を見ていた。さっきまでの険しさが消えて、その目には別の感情が浮かんでいた。

 ――守る。

 その言葉が、胸に沈んでいった。

 この人は、湊を守ると言っている。奪われないように、傷つかないように。そのために、すべてを整理しに来たのだ。

 湊の過去を。湊の環境を。湊につながるすべてを。

 それは、愛情なのか、支配なのか。

 わからなかった。

 でも、温かかった。

 郊外のマンションを後にして、鷹宮の家へと戻った。

 会社には行かなかった。もう夕方で、空がオレンジ色に染まっていた。

 玄関を入り、廊下を歩いていると、鷹宮が急に足を止めた。

 湊も慌てて止まる。

 鷹宮が、振り返った。そして、一歩、近づいてきた。

 近い。

 お互いの息がかかりそうな距離。後ずさりしたいと思ったのに、足が動かなかった。床に縫い止められたように、その場に立ち尽くしていた。

 鷹宮の目が、湊を捉えていた。

「君の人生は、僕が引き受ける」

 低い声が、胸に響いた。

 人生を、引き受ける。

 それは――これから先、ずっと一緒にいるということではないのか。

「だから、外は、もういらない」

 その言葉で、湊の呼吸が止まった。

 外は、いらない。

 外との接触を断つ。外の人間と関わらない。西村を含め、誰にも連絡を取らない。

 それは――自由がなくなるということだ。

 鷹宮の表情が、苦しそうに見えた。眉間に皺を寄せ、唇を噛んでいる。湊を心配しているように見える。湊を失うことを恐れているように見える。

 ――この人は、俺を必要としている。

 その確信が、胸に灯った。

 でも同時に、恐怖も感じていた。

 これを断ったら――もう、ここにはいられない。

 外に出る勇気は、もうない。行く場所もない。頼れる人もいない。

 ここしか、ないのだ。

「……ここに、いさせてください」

 湊は、鷹宮の目を見つめて言った。

 自分の声が、震えていた。

「ここにいたいんです。どこにも、行きたくない」

 本心だった。

 本心なのか、そう思い込んでいるだけなのか、もうわからなかった。

 鷹宮の身体から、力が抜けた。

 強張っていた肩が下がり、表情が和らいだ。安堵が、その顔に広がっていく。

「いい子だ」

 鷹宮の手が、湊の頬に伸びた。

 両手で包み込まれる。大きくて、温かい手のひら。湊の顔を、そっと持ち上げる。

「もうなにも心配しなくていい。僕がそばにいる」

 その声は、優しかった。

 優しくて、温かくて、逃げ場がなかった。

 手のひらの温度が、じんわりと心に染み込んでくる。誰かに触れられることが、こんなに安心するものだと忘れていた。

「君はもう、ひとりじゃない」

 鷹宮の親指が、湊の頬を撫でた。涙の跡をたどるように、優しく。

 ――泣いている。

 自分が泣いていることに、湊は気づいた。いつの間にか、涙が頬を伝っていた。

「僕がいる。ずっと、そばにいる」

 鷹宮の瞳の奥が、揺れていた。

 そこになにがあるのか、湊にはわからなかった。愛情なのか、執着なのか、恐れなのか。

 でも、確かなものがあった。

 この人は、湊を手放す気がない。

 それがわかった。

 そして湊も――この手を振り払う気が、なかった。

「ありがとう、ございます」

 声が、かすれた。

「ここにいます。どこにも、行きません」

 鷹宮の顔が、ほんのわずかに緩んだ。満足げな、安堵した表情。

 その顔を見て、湊の胸に温かいものが広がった。

 ――守られている。

 ――必要とされている。

 ――ここにいていい。

 その三つが、湊の全部になっていた。

 鷹宮が、湊の額にそっと唇を落とした。

 触れるか触れないかの、かすかな感触。

 心臓が、大きく跳ねた。

「おやすみ」

 鷹宮が、手を離した。

 湊は、そのまま動けなかった。額に残る温度を感じながら、立ち尽くしていた。

 ――逃げられない。

 頭の片隅で、そう思った。

 でも、逃げたいとは思わなかった。

 逃げる場所も、逃げる理由も、もうどこにもなかった。

 ここが、湊の世界のすべてになっていた。

 それが幸せなのか、檻なのか。

 湊には、もうわからなかった。

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